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 小説を書く事となった其の事実に、私はおどろきや戸惑いという様な煩わしい感情よりも先に、いささかの面倒臭さを感じたただ其丈それだけであった。
 だがしばらくした後に、小説を書くという、言葉にすれば単純に過ぎる出来事に対して私が抱いた感想が、しかし途轍も無く遠大な作業に思えるという無責任にも諦念にも受け取れるモノであったコトは否定の仕様も無い歴然たる事実である。否定の仕様も無い歴然たる事実ではあるが、それにしたって弁明弁解の余地すらも無いなんて訳ではまさかあるまい。よもや閻魔羅刹も是丈の事で、沙汰の限りに非ず……とは云わぬであろう。いわんや神や仏に於いてをや、だ。更に云うと此処は地獄ですらない。如何なる世界でも大抵は一つ乃至ないし三つぐらいは抜け道なり逃げ道なりが在るモノだ。其の様に決まっている。何か出来ると云うのなら、今の私でも言い訳の一つを考える程度ならば可能なのだから其れをしない手は無い。
 サテ、考えてもみて欲しい。
 例えば――
 たとえば、突然に唐突に何の知らせもなく、韜晦も誇張も虚勢も無い全くの行き成りに小説を書かなければならない境遇に追い込まれてしまった場合の話だが、冷静に沈着にぞっしない程に落ち着いて其れを書き上げる事など、果たして出来るだろうか。そして書き綴った其れが完全に無欠に完膚無きまでに、端から端まで生粋の小説であるなどと、確固たる自信を持って断言するコトが果たして可能だろうか。
 例えばと断りはしたが、此れこそが正に現在の私が置かれている状況であり、敢えて先の問に自答するのならば答えは当然の如く否である。もっとも、既に試した故の回答と云う訳ではなく、私が私自身を対象にした思考実験をした結果の――要するに何の根拠も価値も持たぬ或る種の妄言の一つに過ぎない代物ではあるのだが。然し此の場合忘れないで欲しいのは、世の中にはやってみて初めて判るコトばかりが溢れているのではなく、試さずとも解るモノも確かに存在するのだという只一点に尽きる。
 砂を食むが如き問答を自分独り繰り広げてきた私だが、何にせよ小説を書かねばならないコトには変わりないので、此の様なコトを考えるのは脳髄時間体力更には資源の無駄だと、とうに判じ切っている。いるのだが、やはり思考と試行と錯誤を経験しておく其れ自体は、あと幾らあるか判らぬ私の人生にとって、然し無駄であるとは誰であろうと言い切れぬコトは私自身痛い程に心得ている。
 思考は大切である。
 此の上無く重要である。
 家を建てるのに柱が必要な様に、人生に於いて、思考とは其れが万人にどんなに無駄に思えたトコロで欠かせぬモノなのだ。思考を怠る愚か者の人生など、さながら骨の無い魚の様なモノだ。少しは喰いやすいかも知れないが、手応えも何も無い虚しいモノと相場が決まっている。其の様なモノは魚でも、獣でも、況して人生などとは到底云えぬなにやら判らぬぐちゃぐちゃしたモノでしか有り得ないのだ。
 故に私は考える。
 とは云え――
 とはいえ、先ず何をすれば佳いのかが判らない。
 小説――とは、詰まるところは文字の羅列だろう。一般的な解釈というモノを私は知らないが、少なくとも、現時点での私は其の様に捉えている。其の現時点での私が思う小説とは如何なるモノか。
 先ず、文字が並べば単語が出来る。
 そして語が連なれば節に成る。
 やがて其れらは章と為り、
 成る程、其れを紡げば小説とやらが出来るのだろう。
 
 なんというコトはない、私は文字が書ける。当然、日本語が解るというコトである。そして此処にはペンがある、原稿用紙は……無いが、然し買ってくるコトぐらいは容易いコトであろう。小説とは、たった是丈これだけの道具があれば作れるのだ。作れる筈だ。
 全部合わせて千円にも届かぬ道具。詰まり其れは、そう難しい作業では有り得ない筈だ。
 だと云うのに――
 だというのに小説など作れやしない。
 恐らくは私が、道具以上に大切なモノを、今までのコトが取るに足りないぐらいに大事なモノを、忘れているに違いないからだ。
 まったく、なんということだろう。
 
 う思った私を真っ先に襲ったのは、愕きや戸惑いという様な煩わしい感情ではなく、矢張り些かの面倒臭さ只其丈であった。

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