小説を書く事となった其の事実に、私は
だが
サテ、考えてもみて欲しい。
例えば――
たとえば、突然に唐突に何の知らせもなく、韜晦も誇張も虚勢も無い全くの行き成りに小説を書かなければならない境遇に追い込まれてしまった場合の話だが、冷静に沈着にぞっしない程に落ち着いて其れを書き上げる事など、果たして出来るだろうか。そして書き綴った其れが完全に無欠に完膚無きまでに、端から端まで生粋の小説であるなどと、確固たる自信を持って断言するコトが果たして可能だろうか。
例えばと断りはしたが、此れこそが正に現在の私が置かれている状況であり、敢えて先の問に自答するのならば答えは当然の如く否である。
砂を食むが如き問答を自分独り繰り広げてきた私だが、何にせよ小説を書かねばならないコトには変わりないので、此の様なコトを考えるのは脳髄時間体力更には資源の無駄だと、とうに判じ切っている。いるのだが、やはり思考と試行と錯誤を経験しておく其れ自体は、あと幾らあるか判らぬ私の人生にとって、然し無駄であるとは誰であろうと言い切れぬコトは私自身痛い程に心得ている。
思考は大切である。
此の上無く重要である。
家を建てるのに柱が必要な様に、人生に於いて、思考とは其れが万人にどんなに無駄に思えたトコロで欠かせぬモノなのだ。思考を怠る愚か者の人生など、さながら骨の無い魚の様なモノだ。少しは喰いやすいかも知れないが、手応えも何も無い虚しいモノと相場が決まっている。其の様なモノは魚でも、獣でも、況して人生などとは到底云えぬなにやら判らぬぐちゃぐちゃしたモノでしか有り得ないのだ。
故に私は考える。
とは云え――
とはいえ、先ず何をすれば佳いのかが判らない。
小説――とは、詰まるところは文字の羅列だろう。一般的な解釈というモノを私は知らないが、少なくとも、現時点での私は其の様に捉えている。其の現時点での私が思う小説とは如何なるモノか。
先ず、文字が並べば単語が出来る。
そして語が連なれば節に成る。
やがて其れらは章と為り、
成る程、其れを紡げば小説とやらが出来るのだろう。
なんというコトはない、私は文字が書ける。当然、日本語が解るというコトである。そして此処にはペンがある、原稿用紙は……無いが、然し買ってくるコトぐらいは容易いコトであろう。小説とは、たった
全部合わせて千円にも届かぬ道具。詰まり其れは、そう難しい作業では有り得ない筈だ。
だと云うのに――
だというのに小説など作れやしない。
恐らくは私が、道具以上に大切なモノを、今までのコトが取るに足りないぐらいに大事なモノを、忘れているに違いないからだ。
まったく、なんということだろう。