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 さて、小説を書かねばならぬというコトは心得ているのだが、然し先ず何をすればいのかが皆目見当も付かない。
 そも、期限などといったモノは存在しないのだから、焦る必要性は全くと言って差し支えない程に無いのではあるが、しかしそれにしても時間の無いコトには変わりないのだ。こうしている間も世の中は私を置き去りに動き、私の時間というモノも蝋が融けるが如く失われているに違いないのだから。事を迅速に進めるに越したコトはない。性急になりすぎるのも考えものだが、しかし凝然と待っていたところで事態は進展を見せないであろうことは確信を持って云える。それだけは確かなコトだ。
 四畳の部屋の片隅、近場の文具店にて百七十円で買ってきた原稿用紙を前にううむと唸ってみるものの、しかし何かを書けたというコトはなく、結局は只時間を無為に潰した丈となってしまった。然うして午前が過ぎ、後に残ったのは真っ新な原稿用紙と疲弊した脳髄、ついでに云うならば、酷い空腹感と只其丈だった。
 突然小説を書くコトとなった驚きの所為だろうか、昼も一時を回ろうというのに、今日は未だ米の一粒すらも口にしてはいない。私も人並みには食事をする質なので、流石に昼食抜きで生活するというのは些か辛いものがある。宝介ホウスケ辺りなら恐らく「辛いだって、それがどうしたんだい。そんなモノはほら、幸いということと紙一重じゃあないか」などと笑うところであろうか。確かに彼が云うのなら其の様な見方も在るのだろう。惜しむらくは……此の場合紙一重とは電話帳と同等の厚さはあるであろうというコトだ。
 言葉遊びでは腹は満たない。
 悪魔でも死神でも在り得ない私は、小説を書くのを中断して、やや遅い昼食を摂るコトにした。
 中断。
 元より、一文字だって書いてはいないのだが。
 
  ◆    ◆
 
 白米を少々に沢庵を二枚、それと味噌汁。宝介曰くトリのエサ。質素な食事が終わった。
 此の様な古アパートに住んでいる身分故、贅沢は出来ない。無駄な消費は敵である。しかしこういった生活をしているのは、飽く迄私自身の自由意思であり、何かに強制されての境遇では有り得ない。金に不自由をしている訳でもなく、只単純に私自身浪費というモノが嫌いな丈なのだ。部屋も広いと落ち着かない。物だって多いと不安定になる。そんな私の言い分を聞いて、数少ない友人達は皆一様に私を異常者である様に云うのだ。私などより遙かに巨大な財産を有している筈の宝介は「嫌味の化身の様な人間だね君は」と云い、弱冠二十歳にして天才の呼び名をほしいままにする数鉈カズナタは「貴様は全てを手に入れる事が出来る、にも関わらず精神的に不自由で存ろうとする、まるで崩壊した奴だ」などと余りに酷い言い様である。実際、性格的な観点で云うならば、宝介の方が明らかに捻れているだろうし、不自由と云えばしかし私には数鉈の方が何かに囚われ、苦しんでいる様子に思えた。私は私で好きにやっているのだから、非難される云われは無い。
 結論として、三人が三人とも非の打ち所もなく完膚無きまでに異常だったのだと気付くのには、私達には些か早過ぎたのだ。其の様なモノは何十年か経った後に理解わかれば佳い。
 柄にもなく感傷的になってしまった。恐らくは、現実から逃避したいと私が無意識に思ってしまった其れ故なのだろう。無意識は其丈で感情を動かす。
 然し――
 しかし無意識に思う、とはく能く考えればなんとおかしな言葉だろうか。思う、とは心を動かすコトだ。動かすというコトは、必然、其処には何らかの意思が存在しなければ在り得ない。無意識とは意識が失い状態なのだから、無意識に思うとは"意識が無いのに意思が在る"という、まるで矛盾に似た状態が発生するコトになるのだろう。
 矛盾とは法則の崩壊だ。即ち其れは世界の崩壊に繋がる。
 なんとも阿呆らしい妄想に顔が綻ぶ。
 気分が佳い。
 此れなら小説とやらも、なんとか書けるのかも知れない。
 
  ◆    ◆
 
 現実とはとかく無惨なモノで。
 詰まりは小説に何の進展も無かったと云うコトだ。
 宝介ならば、無惨では無く無情……とでも云うのだろう。
 現実に意思は無い。
 在るのはどうしようもない現実丈なのだから。
 
  ◆    ◆
 
 結局此の日は何も出来なかった。
 机の上の紙は白いままだ。
 然し私は小説を書かねばならぬ。何故ならそれが私の役割だからだ。
 とは云え、此のままではどうしようもない。
 ――空が昏い。
 明日は、何処かへ行く事にしよう。
 そう想い、電気を落とす。

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