05-1/


 目覚めると、其処は矢張りと云うべきか一時を少し過ぎたばかりの時間をうろうろした時計が支配する世界であった。一秒間に一回秒針を動かすという極めて単純な作業を放棄した時計は、十分な電力の供給が為されるまでストライキを継続するようである。目下のトコロ特に正確な時間など必要としない私は、只適当な時間にじりじり鳴る機能がアレばヨシとする。
 このときの私は、電気も無しに音は鳴らないという事を当然の様に失念していた。
 汗に濡れた体を布団から剥がし、埃くさい部屋を見回す。見回すと云っても、其れ程の広さがある訳ではない。単純に何かしら不吉な予感に苛まれた故、おかしなコトは無いかと簡単な確認をした其丈の行為である。
 詰まりは、安心を得る為の手続き。
 先に視た夢は何であったかと思い出そうとするが、なにやら変な痛みが頭部を占有しており、なかなか正常な機能を使用するコトが出来ない。しかし此の大量の発汗ヨリ、とても佳い夢では無かったろうコトは想像に難くない。
 酷く喉が渇く。
 適当に水を飲み、浅黄の甚平から青磁のソレに着替える。
 酷く痛みはする癖に未だ覚めぬ脳髄で芒と思う。
 
 ベニヤの戸を開けて閉める。
 
 
  ◆    ◆
 
 夏の空は只蒼く――手の届きそうな其の高さは、然し掴めるモノなど何も無く、仰ぐ手は文字通り空を切るばかりで。
 何も無い。
 其は無では在り得ない虚であり、虚と云うヨリも漠であると云えた。
 空の境とは即ち曖昧であり、広広とした其の在り方はやはり茫漠という言葉が相応しいのだろう。
 空の色は死を想わせる。
 目に映る視界こそが所有出来る世界だとするならば、切り取られた空は詰まり私の人生か。
 人は古来より大空を夢視てきた。其処に自分とは違う世界を、何より果ての無い自由を求めていたのだろう。故に試行と錯誤を繰り返し、遂には空を手に入れた。
 だが思い出すが佳い。鳥が何故空を飛ぶのかを。彼らはそうするコトでしか生きられないのだ。自由に空を飛べるのではなく、空を飛ぶ以外の自由が無い。
 しかし、空に自由を馳せる人間を私は愚かと嗤えるだろうか。
 何より自由と云うモノを理解するコトが出来ず、故に夢視るコトも出来ない私の方が、彼らヨリも劣っているのだろうから。
 閑話休題。
 私は自由を語るために此処にいるのではない。
 飽く迄私は小説を書くために、斯うして歩いているのである。
 今回の件が元で気が付いたコトなのだが、どうも私はぢっと考えるコトが苦手なようだ。現在まで其のコトに気付けなかったとなると、恥ずかしい話私の二十余年の人生に於いて、思考活動を積極的に行わなかったというコトを自ら吐露してるようであまり気分の佳いモノではない。断っておくが今回は特別なのである。普段であるならば、あの小さな部屋で脳髄を働かせたならば、其れこそ滝泉の様に考案が溢れてくるのである。幾分か誇張があるにせよ、だ。
 話が過ぎたが、要するに私は悩んでいたのだ。
 ヤヨイと名乗る死神が現れたのが五日前。
 既に五日。
 五日経ったのだ。
 此の五日間私が行ったコトとは、宝介に助言を貰い図書館に行った以外に、私が所有する狭い密室で思考を復す只其丈なのであった。
 虚にも実にも、毒にも薬にもならないような無為な思考活動だが、実体は無くとも其れで小説に携わっていると解釈がなされるなら、しかし無意味ではなかったのか。何より、其のお陰で生きていられるのだから。
 とは云え――生きているコトが幸せなのかと問われると、返答に窮する。
 生と生と生に縛られたあだ火宅かたくヨリも、死の解放桃源幻想、束も縛も無い自由な空を夢想する人間がいるコトも、否定することは出来ない。
 
 だが、生き着く先が天上でも地獄でも、其処には真に自由は無いのだろう。
 確固として、空にも果てが在るのだから。
 
  ◆    ◆
 
 未だ緋が走る以前ヨリ、歩みを続けて大禍時おおまがとき
 誰彼たそがれの世界に、やはり私は独りだった。
 思えば節季無稽の結成以前、私は常に独りではなかったか。
 曰く、心の在り方が、孤独だと。
 
 小説を書かねばならぬ、此の様な悩みを持つ遙か以前。
 私はひとつの疑問を持った。
 単純、誰もが一度は考えるであろうコト。
 世界とは何のためにアリ、私とは何のために在るのだろうか、と。
 そして愕然としたものだ。
 自分の為に在ると思った世界を私はまるで理解してはいないのではないか。
 世界の為に在ると思った自分の役割とは何なのだろうか。
 ヒトは勝手に生まれ、勝手に死んでいく。
 其処に意味は在るのか。
 単純。
 ヒトは、世界を支える丈のモノだ。
 世界が私の意志とは関係無く動くモノならば、其処に意味など在るまい。
 ヒトの意志と無関係な世界は、意味の無いモノだ。
 意味の無いモノは、必要の無いモノだ。
 ならば。
 そんな世界ならば――
 
 私は世界と、そして自分をも否定することで悩みを持つ事を拒否した。
 意味の無いモノなど、悩む必要は無いと。
 意味の無い世界に、惑いなど必要は無いと。
 悩みを持たない私は常に孤独であった。
 詰まり其れは、人としての苦悩が無いと云う事なのだから。
 そんな輩が、人間として世界で機能する道理、在るわけが無い。
 
 其の私が今、小説などと云う幻想のコトで斯うして悩んでいる。なんという皮肉なのだろうか。
 現実に悩まなかった私が、幻想に惑っているのだ。
 不思議なコトだ。
 そういえば、此の惑いは誰に依るモノであったか。
 
 
  ◆    ◆
 
 
 午前零時。零ノ時間。
 世界が切り替わる其の時に彼女は現れた。
 ヤヨイ、と名乗る死神。
 其れは詰まり、死という方向性を持った、とある一つの概念。
 善も悪も無い、架空の要素の具現。
 
 何時の間にか部屋へ着く。
 平薄莊ヒラウスソウ
 そう看板が掛かった古いアパート。
 其の二階、三号室の前に私は居た。
 戸に手を掛ける。
 
 忘れていた事が一つ。
 先の時間を零ノ時間と形容した私は大事な事を失念していた。
 境界には魔が棲む。
 現時間。誰彼の世界はそう、幻と現の融合であり――逢魔が時と呼ばれる一つの境界。大禍時から転じた其れは言葉の通りワザワイの時でありマと出逢う刻なのだ。
 言葉は生きている。
 そして私は戸を開ける。
 
 部屋の中に影が一つ。
 鎧沢数鉈。
 一つの魔が其処にあった。

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