「やあやあやあやあよく来てくれたね嬉しいよ、そろそろ来る頃だろうと思ってはいたのだけれども――いやいや僕の勘もなかなか馬鹿に出来無いねえ? どうだい調子は? いや、言わなくとも判るさ、つまり今日は僕に用が有って来たのだろうね。多分何のことだろうかは僕の想像と相違ないと思うのだけれど、やはりそうかな、君にしては珍しいと思うが恐らく恋愛のことだろう。おおっと帰ろうとしないでくれたまえ、すまないすまない冗談だ冗談、判ってる、判っているよこの僕はさ。とりあえず入ってくれ、僕だって話したいことはあるのさ、それこそ山のようにね」
私は何も云わず――と云うヨリも云う機会を逃したのだが――一つ頷き、相楽の屋敷に入る。
敷地面積千五百坪以上と云う西洋趣味な此の屋敷は、玄関だけでも相当な広さである。何しろ私は此の町で相楽の屋敷以外に門から玄関までの距離が数十
屋敷付きの使用人が私の背後で扉を閉める。成る程、私が来るのを予期していたと云うのはそれなりに真実なのであろう。普段の来客時は使用人が扉の開閉を行う筈だ、しかし今回は宝介本人が扉を開けた。詰まり、然ういうコトだ。
応接間へ通された私は宝介の前――骨董品だろうか、高そうな椅子だ――に座る。
「サテ――何から話そうか。君は僕に云う
そう目の前の男は笑う。
いつものコトだ。
いつもの、コト。
この男は――世界が終わる時ですら、まるで此の調子なのだろう。
◆ ◆
相楽家現当主。
饒舌、白スーツ、人の話を聞かない。
相楽宝介という男は、端から見る分には
先代である相楽
所謂一つの天才であり――
――数少ない、私の友人の一人である。
◆ ◆
何故現在私が相楽の屋敷に居るのか。
其れを説明するには一つ、回想を挟むコトになる。
◆ ◆
恐ろしい程に、晴れた日であった。
朝の空気は透き徹り、未だ夢中に在る脳髄を白く冒していた。夢と現実を同時に剥ぎ取ろうとする光。思わず其れに任せて、現在の私の境遇を忘却してしまいたい衝動に駆られるのだが、然し私は小説を書かねばならない。是丈は揺るぎ無い事実であり、私に架せられた
とは云え法とは佳い言葉だ。
無言の強制力という点を見れば正しく此れは法であろう。
小説を書かねばならない。
其れは法であり、そして罰なのである。
深呼吸をしながら、然し――と私は考える。
しかし小説を書くと云っても、そも今迄一度だって小説と云うモノを読んだコトが無い私に、其れを創るコトが出来るのであろうか。甚だ疑問である。
平生の状態ならば、元より此の様に考えるコト其の事態が存り得ないのだが。流石に今回許りは幾分か不安になるというモノだ。
ならばどうしようかと此の狭い脳髄で煮詰めてみるも名案と云えるモノは何も思い浮かばない。
窓の外。太陽はいやに自己主張が強い。
時間は一時をやや過ぎた様子。
予定通り――行く当ても無く――何処かへ、行く事にしよう。
◆ ◆
古アパートの周辺を散歩しながら小一時間悩んだ私が出した結論は「友人に協力を仰ぐ」コトであり、「相楽宝介に相談する」コトであった。
相楽宝介と云えば、類い希なる頭脳と財力を持ち、やはり斯様な場合には頼れる存在として五指に入る人間であろうことは、疑念を挟む余地も無い確固たる事実の一つであると思う。
此の様な友人を持って私は幸福だ、全く素晴らしい友人を持ったものだと、思っていたのだが。
然し斯うして実際に行動を起こしてみると――
「ソレにしたって久しぶりだね、君が僕に会いに来てくれるなんてさ。僕は普段から君を親友とも盟友とも思っているというのに、君ときたらまるで僕の期待したような反応を見せてくれないのだもの。流石の僕もくじけてしまうトコロだったよ、いや、本当に。まあだけど今回君が僕を訪ねて来てくれたということは君は僕を友人として認めてくれてるというそういうわけだね、うん。もしかして一番初めに僕の元へ来てくれたんじゃないかい、どうだろう。ふふふ、どうやら図星のようだね。なんだい、君は普段から全く興味が無いフリをしているけど、ははあ、君、実は僕のこと大好きだな。いやいや照れなくてもいい、判ってる、判っているよこの僕はさ。嬉しいよ実際、僕も君の事が大好きだ、ああ、カズと同じぐらい君を認めているよ。恐らくカズも君の人格頭脳体力財力全てを全て総合して、心悪くは思っていないだろうさ。うんうん、君はそういう人物さ、誰からも好かれる人気者なのさ。だから僕も君のことを良い人間だと思っているよ。しかしねえ……同性はマズイだろう同性は、確かに僕は君の事が大好きだがそれはあくまで友人としての話であってね、そういった関係になるのは些か憚られるのだよ。しかし君がどうしてもと言うならば一度の過ちぐらいはしかし許そうと思わないでもな――」
――来ない方が佳かったのでは無いかと。
自分の考えは軽率過ぎやしなかったか、此処に来るのは早計過ぎた気がしないかと、激しく、激しく後悔しているのである。
一応断っておくが、勿論私は衆道の方へ進む気など、一切も、微塵も持ち合わせてはいない。
忘れていたコトが一つ。
相楽宝介と云う人物は頭が切れるコトだけは確かなのだが、独断と偏見と思いこみと妄想が強すぎるきらいがあるのだ。
悪く云うと変態的な面があるといったトコロか。
いや、事実変態なのだろう。
実際私が斯うして或る種の自己嫌悪に陥っている間も、宝介はひたすらに喋り続けて――の結果周囲からどう思われようとしかしそんなことは些末な問題だろう、昔から禁断の愛は周囲の誹りを免れ――いる訳であり、独りで完結している変態であるが故、他者の声など在っても無くても同じというコトを表していると云えよう。
「――だというならば仕方ない、よし早速今からでも僕の寝室の方へ行こうじゃないか」
瞬間、思考が塗り潰される。発言の不理解。宝介が独り言を(いや、私に話し掛けていたのだろうが)云っていた間、私は私で考えゴトをしていたのだから、当然である。過程を飛ばして結果だけ聞かされても、理解の仕様が無いではないか。
「いだなあ、君が僕と二人で禁断の愛を育みたいと言ったんじゃないか」
断じて有り得ぬ。
私は此の家に入ってから、一言も発してはいないのだから。
◆ ◆
本来ならば暴力を振るうというコトは、私の好むトコロではないのではあるが、しかし此の場合は仕方が無いと云えよう。一度自分の世界に入った宝介は、決して他人の声に惑うコトが無い。其れを止める為ならば、やはり手刀の二、三発は許されて然るべきだ。
先の発言にしたって、今でさえ平生に戻り「いやあすまない、冗談だったんだよ冗談、失言妄言を詫びるよ、失敬失敬」などと宣っているが、察しの通り相楽宝介という人物は冗談を実行する輩である。
「サテ――本当に、冗談はこれぐらいにしてそろそろ本題に入ろうか。君は僕に用が有って来たのだろう? ならばまずは君の話を聞こうじゃないか。僕の話はその後だ。迅速に厳粛に最奥に真実に。此処からは――」
一切の冗談は抜きだ――と。
目付きが変わる。
空気が、軋む。
――嗚呼、そうだ。
此処に来てから疑問と後悔ばかりが私の心中の大半を占めていたのだが……其れが、晴れた。
そうだ、相楽宝介とは斯ういった男だった。
三年前を思い出す。
未だ私達が学生だった頃のことだ。飄々軽々とした人物。何を考えているのか聞けば聞くほどに考えれば解らない。ただその目がいつの遠くを見ていた事を記憶している。遠い、遠い男であった。
名を、相楽宝介という。
私の眼前に広がるのは、記憶と同じ姿。
此処に来て本当に――
「そうそう、難しい話が終わった後はいよいよ僕の寝室へ行こうか」
前言撤回。
やはり私は家に籠もるべきであった。
◆ ◆
――幻想と云えば幻想なのだろう。
思えば感覚は今も夢中の其れであり。
あの時も、世界がまるで揺らいでいた。
今から凡そ三十四時間前、私が普段の様に夜の散歩を終え、誰も居ない居間で唯一の例外としてテレビのディスプレイを眺めていた時のコトだった。
必要なモノ以外何も無い我が家に於いて、此のテレビ丈は例外なのである。
其れは私が此の誰も居ない居間に於いて例外として居るコトと同じような意味合いでしか無いのだが、しかしテレビとは佳いモノだ。
残念ながら手元に新聞もリモコンも無かったため、仕方なく只黒光りする画面をじいと見つめていたのだが、其れも其れである種の趣があって悪いモノではない。其の様なコトをぼうと思っていたのだが、此の場合其れはさして重要ではあるまい。
私が無為にテレビを見ていたところ、ふと、画面の端になにやら見慣れない人型が映っているコトに気が付いた。
此の部屋には私以外の人間は無い筈なのだから、ははあ成る程、詰まり其れは人間では無いのだろうなどと当たりを付けて、どちら様でしょうかと人型へ尋ねてみる。
するとその人型はまるで不思議に、音の亡い様な声でとんでもない事を喋り出したのである。
「突然お邪魔して申し訳無い気持ちで一杯なのですが実は私は死神なのです」
どうやら私の考えは当たっていた様で、やはり此の部屋に私以外の人間は存在しなかった。
しかしだからと云って死神が居ても佳いという道理にはならないであろう。
少女の人型をした死神は、一体此処で何をしていたのだろうか。
何をしていたのですかと私が尋ねると、死神だと云う其れは、寝ていたのです、と云った。
私の部屋で何をしようが私は一向に構わないのであるが、しかし睡眠は余り佳いコトとは云えない。私の部屋で眠る権利は、本来私以外の何者も持たない筈であり、そう在るのが正しい筈だ。となると此の状況は歓迎出来るモノとは云い難い。私は其の辺りの理由を少し尋ねてみるコトにした。
何故寝ていたのですか
「嗚呼済みません、私は眠かったのです」
眠かったのですか
「ええ、眠かったのです」
死神も眠くなるモノなのですか
「死神だから眠くなるモノなのです」
成る程、死神とは眠くなるモノらしい。其れならば仕様のないコトなのかもしれないが、しかし私の部屋で寝られるのは困る。どうか寝るのならば他を当たって欲しい、其れ以外なら歓迎しても佳いが。
「違います、嗚呼違うのですよ貴方。私は此処に、貴方に用が在って来たのです」
私にですか
「貴方にです」
しかし私は死神に用事は在りません、出来れば手短にして欲しいのです
「ならば簡潔に、用件だけを伝えましょう」
用件。
死神からの用件。
死神、というからには、要するに私の命を奪いに来たという事だろうか。
命を、奪う。
確かに私は其丈の事をされても仕方のない存在なのかも知れない。
だとすれば、私は死神の言葉を、素直に飲み込めるだろうか。
「勘違いはしないで下さい。確かに死ぬことになるかも知れませんがそれは結果的に、です。嗚呼貴方大丈夫、大丈夫です、回避する方法は在るのです。そしてそれが私の用件なのです。そう、死ぬべきでない。死神としては、死んで貰うよりも、やって頂きたい重要な事があるのです。それが私の用件なのです」
では私の命を奪うために来たのではないというコトか。
「はっきりと申し上げます。死神弥生からの貴方への用件」
そして云った。
音も無く、声も亡く。
◆ ◆
其処まで私が話すと、宝介は突如として其れまで閉じていた口を開き始めた。
「ふうむ、成る程オーケーオーケイ、現在君の置かれている境遇はコレでハッキリとバッチリと理解ったよ。面白い面白い。それで君は小説を書くことになったんだね? いやいや不思議な話だね、おかしな話だ。突如現れた死神、彼女の願いは小説を書いて貰うこと、だった。願い、というよりこの場合は法と言った方が良いのかな? 法の解除条件は小説を書き上げる、執行条件は書くことをやめる……と、こんな感じだろうか。ふ――む、実に、実に面白い、非常に興味深い内容だよ。素敵な話じゃないか! 少女の姿をした死神ね……小説を書かねばその彼女の手で君は死んでしまう、面白い、実に面白い話だ。ところで君、面白いの語源が貧血にあるんだって知っているかい? なんでも、貧血で倒れたある男の顔があんまりに白くて、その様子がオドウニモ可笑しいとかで面白いって言葉が出来たそうだよ、面白いだろ。もっとも僕が今考えたものなんだけどね、アハハハ。それは兎も角、いや、兎に角があるのかは知らないけれどね、兎も角君は厄介な目にばかり遭うよね。本当まるで仕組まれた様にって感じではあるけれど。ああ、実際に仕組まれてるんだっけ? 修正だか習性だか忘れたけれども大変だねえ。とは言え見てるこっちも大変なんだからおあいこって感じだよね。ナニ、僕は大変じゃないって? いやだなあ、大変面白いって事だよ、ハハハ。おい怒るなって、ごめんよ、ふて腐れるなって、君の反応が随分とアレなもんだから、ついつい
無論だ。
小説は書かねばならない。
だが其れは飽く迄前提としての話である。
実際に書くとなると、しかし私は何をすれば佳いのかが判らない。
そも、其れを聞くために此の場所へ足を運んだのだ。
私には判らない、小説というモノを。
宝介の頭脳を借りて、道を開こうと。
「君が何を悩んでいるのか残念ながら僕にはさっぱり理解らないな。この僕でさえ判らないのだから、他の誰だってそれを判じる事は不可能だろう。となると君は君一人で、自分自身の力でこの問題を解決しなければならない。周囲の手助けなど皆無だろう。そのようなものは絶無に期待できない。だから君は独り脳髄の牢獄に囚われて迷い、惑わなければならないのさ。これまでの人生を迷い無く進んできた君には丁度良い話なんじゃないかな? 人並みに悩みを経験するってのも然し悪くは無いと僕は考えるわけさ。どんな時でも順風満帆その上で波風立てず、なんてのは流石に都合が良すぎる。僕は赦すがお天道様は許してくれない。もっとも君はそのお天道様と戦ってるんだっけ。ハハハ、いやこれは失礼。でもさ、やっぱり僕には君の悩みが理解らないな。いや、判ってはいるし理解ってはいるけども、受け入れることが出来ないというか、そもそもあれだろう。小説というのは何を書いてもいいんだろ。それが小説の売り文句だろう。 自由に好きな事を書けばいいのさ。君ほどのスペックを所有しているならばそれは容易な事の筈なんだけれどね。自由に、好きな事を。自由。自由。自由。自由ってのはところで本当に良い言葉だね思わず反吐と涙が同時に出てしまうよ。昼食の食べ過ぎかな。しかしそれにしても自由とは一体なんなんだろうね。これについては昔から、欠伸が出るぐらい大昔からあらゆる議論がされてきたんだろうけど。実際それこそ小説なんか開いてみると、自由について触れていない小説なんて見つけるのが難しいぐらいだ。いやあ、まあ自由について触れていない文は小説じゃあないというか、小説とは自由について書くものだ……とか色々あるんだろうけどね。まあ僕にはどうでもいいことさ。兎に角君は自由に、好きなように小説を書けばいいと僕は考えるね」
自由。
其れが問題なのだ。
其れが解らぬのだ。
好きな様にと言われても何を書けば良いのか思いもつかぬ。自由と言われても然し其れは道が無いと言うことだ。此の様な事態に見舞われる其丈で異常だというのに。何故こうなったかさえ解らぬと言うのに。其れで尚自由などと言う曖昧なモノに振り回されるのか。
宝介は続ける。
「結論を言ってしまうとね、残念ながら現時点では僕にもサッパリ判らないんだ。ハッキリ言うと、この件に関して僕が出来る事は、僕の権限で関われる事はほとんど無い。というか余りにも特殊すぎるんだよ。君が小説を書く以外の方法が思いつかないというか……まあアドバイスの一つ二つなら……可能と言えば可能か。うん、君は死神に付きまとわれていると言ったがね、それについてのヒントを一つあげよう。良く聞けよ君、死神というのはね――」
――人間の補色残像に当たるものなのさ。
◆ ◆
其丈云って宝介は口を閉ざした。
もう語る事は無いと。
まるでそう云う様に。
補色残像。
正直に云うと、私は此の言葉が何を意味するのか理解する事が出来なかった。
まるで判らない。
まるで理解らない。
理解の外が広すぎる。
小説は書けない。しかし書かねばならないのだ。
不理解のまま私は席を立つ。
何も云わずに部屋を出る。
宝介は何も云わない。
故に私も語らない。
斯うして期待通りの成果が得られないまま、相楽の屋敷を後にしようと、広い玄関……其の扉を開けようとした時――
「ところでそうだ、君は僕の部屋に泊まるのではなかったっけ」
莫迦。
そう一度だけ笑って、狭い家へ戻った。