相楽邸を訪れて翌日、弥生と名乗る少女が現れてから三日。則ち、私が小説というモノに関わり始めて三日目というコトになる。
三日。
既に三日も経ったのかという驚きと未だ三日しか経たぬのかという失望に似た虚脱とが入り混じって私の脳髄を、身体を、隅々まで駆けめぐる。此の拷問は一体何時何処まで続くのかと考えると、自然溜息も出るというモノだ。
成る程、私への罰として小説が撰ばれたと信じるのであれば、死神とやらは随分と私を知っているではないか。現実に生きる私が小説という幻想に縛られるなど……趣味の悪い、質の悪い冗句だ。耐えられる道理がない。
尤も――
もっとも、後で知る話ではあるが……勿論という可きか、私は解放される。
七日間。
そう、この責め苦は七日間の物語なのだ。七日で閉じる地獄なのだ。七日目に私は小説を書き終える。今の私は其れを知る
君ならきっと小説を書き上げるのだろうと――
宝介の言葉はやはり正しかったのだと、思い知る。
まあ其れも先の話。
兎にも角にも現在は三日目なのだ。未だ見ぬ七日目のコトなど夢想だにしない今の私は素直に迷うしかないのだ。
だが、今の私は……私の無知を恥じる。補色残像……相楽宝介が、自身の出来る限りの助言を、知っている限りのコトを凝縮したであろう発言を、微塵も、欠片も、一寸も理解出来ないのだ。自身に恥じ入る以外の何が出来よう。
恥じ入る以外のコトが出来ない私はしかしどうしようも無いという訳では無い事を思い出す。思い知る。
要するに断片であれヒントが有るのだ。とすれば、私独り脳髄の密室で暴れる必要など微塵も無い。足りない情報は補えば佳い。判らない言葉は調べれば佳い。幸いにして此のアパートからそう遠く無い場所に市立図書館が在る筈だ。
早速今からでも行こうかと思い、ふと部屋の時計を、時間を確認する。随分前から秒針を一秒間に一回だけ動かすという行為に飽きたらしい其れは、午後の一時を少し過ぎた辺りをうろうろしていた。
成る程、あれやこれやと惑っているうち間にどうやら昼になっていたようだ。気が付くと腹がぐうと鳴る。図書館に向かう前に先ずは昼食を摂らねばならない。昼食は大事だ。この上なく大切だ。
◆ ◆
本日の献立は白飯に溶き卵、それと胡瓜の漬け物。食後に林檎を一つ囓る。
むう、確かに此れでは畜生の餌だと笑われても仕方のない事なのかも知れない。どころか、最近ではその畜生の方が遙かに佳い暮らしをしているらしいではないか。三食昼寝付き、更には服など着ている犬コロなどいるだとか。一年を甚平だけで過ごす私と較べて、果たしてどちらが幸福なのだろうか。
因みに……此の様なタイミングで云うのはどうなのかと思うが、私は朝食を食べない。昼と夕の二食で、どちらも似たような内容の物を食する。ますます私の、畜生以下の生活が露呈してきたようだが……繰り返して云おう、私は好んで此の様な生活を送っているのである。金が無い訳では無い……というか、事情により有り余るほどに有るぐらいだ。宝介ほどではないせよ、だ。
事情と云ったが……然し其の様な物を抱えているのは私だけであるなどと自惚れている訳では無い。そも、此の平薄荘の住人で何らかの複雑な事情を持ち得ない人間は一人としていないのだから。皆一様に……いや、一様ではない事情を持っているのである。私も其の中の一人に過ぎない。
住人は勿論其れを知っているし、知っているからこそ隣人に深く干渉したりしない。
皆自分の腹を探られる感覚を知っている。わざわざ不快感を蔓延させようと考える輩はいないのだ。
誰にするでも無い弁解めいた思念を膨らませるうち、腹はそこそこに膨れていた。脳に血液を送りすぎた所為で、ゆっくりと味わえ無かったのが頂けないが。
丁度佳い頃合いだろう、仄洞の図書館へと向かうとしよう。
◆ ◆
仄洞市立図書館。
仄洞市
話は逸れるが、此処の住所である明等町は平薄荘と同じ区域にあり、駅を挟んだ反対側には宝介が其の居を構える透隙町がある。徒歩十数分で図書館へ着くという恵まれた位置に在りながら此れ迄一度も利用した事が無かったというのは何ともはや、私の学問への消極性を吐露するようで気分が悪いのだが、事実を象ったコトで有る事は否定出来ない。
それでも自己弁護の為に云っておくと、私も宝介や数鉈と同じ文明館の出なのだ。最早説明の必要すらない学問の牢獄。其処で教えを受けた此の私も、決して無知無学愚痴蒙昧なのでは無いと明言して置きたいのである。私が学ぶモノは文明館という知の獄に収められていた故に、図書館というものを必要としなかった只其丈の事なのだ。
其の私が、今斯うして図書館に居る。
年年歳歳花相似、歳歳年年人不同。
有り勝ちな台詞ではあるが、然し三年という年月を感じずにはいられない。
三年前の私とは全く違う私が、三年前の因果で斯うして小説のヒントを探している。
世界とは佳く出来たものだな。
そう、本心から想い、吐き気がした。
◆ ◆
宝介の言葉を理解しようと適当な書物に目を通して見るが、以前ヨリ勘というモノが働かない人種であるらしい私は「ユリシーズ」だとか「百頭女」「マリアンヌの夢」「詩学」「ハザール辞典」「シャム」といった様に、多種多様多岐に渡る書物に片端から目を通してみたところで目的の言葉は見つからなかった。
私の広げる本の余りに節操の無いコトを見かねたのか、司書の一人が、どのような本をお探しで……と聞いてきた。
未知なる単語を調べたいのですが私の広げた本は不親切な事に何処にも其れが載っていないのです。
と答えると、司書は、それならば辞書を使えばよいじゃありませんかなぜそうしないのですか、と珍妙不可思議にして理解不能といった表情を浮かべ首を傾げた。辞書とは何の様な物であるかをそもそも知識として所有していない私は、白痴に思われやしないかと心配になりながらも思い切って、それは何なのですかと尋ねてみた。司書の返答で判ったのは、辞書とは多種多様有りとあらゆる言葉という言葉を蒐集網羅し、一定の基準に沿って分類
それにしても――
それにしてもよもや此の様な便利なモノが世の中にあるとは、夢想だにしなかった。然しどうやら
ふと、或る考えが頭を過ぎる。
詰まり、辞書も一種の世界なのではないか、と。
言葉のみで構成された世界。
奇妙コトに、其れが私の目指す果てと、一つ重なる気がした。
◆ ◆
静かに騒がしい図書館の一般開架、其の書見机に一冊の辞書を広げた私は至極幸せな時間を過ごしていた。
司書さんが立ち去って暫くの間私は「隘路」だとか「无」「jail goal」「ユークリッド」「慮る」「帰依」「円筒ケージ」「de facto」「未那識」「赤方偏移」などの言葉を唯唯取り込み、時を忘れていた。もし図書館が三時の休息を知らせてくれる程に親切で無ければ、危うく夜まで辞書に吸い込まれるところであった。
剣呑剣呑。
チャイムのお陰で我に返った私は図書館へ足を運んだ目的を思い出し、溜息を吐きながら目的の言葉を辞書から探した。
【補色残像】
或る色を凝然と見た後に、別の面を見ると、元の刺激の色相と補色関係にある色の残像が見える現象。
継時対比に分類される。
宝介が云っていたのは確か此の言葉であった筈だが……冗談じゃないと云いたいところである。まるで意味がわからないでは無いか。こんなコトでは此処まで足を運んだ意味が余りにも薄くなってしまう。暫しの至福を得られたため、皆無とは云えないが……。まあ佳い、不明な言葉同士を
【継時対比】
直前に見た色の影響を受けて色が本来の見えとは異なる見え方をする現象。
ふむ、此れならばまだ理解は出来る、理解は出来るが……然し其れがなんだというのだ。私なりに咀嚼し要約してみると、補色残像とは直前に見た色を因として補色関係にある残像が幻視される現象……と言ったところか。理解はした。
理解はしたが……
其丈だ。
どうしようも無い。
宝介は一体私にどうしろと云うのだ。
然るべき知識を持った人間ならば此の言葉を聞いただけで或いは電撃が走るのやも知れぬ、また別な人間ならば異なる側面から此れを捉え、答えに辿り着くのかも知れない。だが其の様なコトを私に期待されても困る。回り
◆ ◆
収穫の無いまま図書館を去る。
唯一つ、辞書のみを携えて。
外はそう、夏の匂いと共に不吉な橙を帰路に示していた。